西の都 装飾
20

きいじょうあと

所在地 筑紫野市・基山町
指定等の状況 国特別史跡
エンブレム

663年の百済役の後、大野城跡と同じ665年に築城された古代山城です。大宰府政庁の真南にある坊主山(404m)に所在し、大野城や水城とともに百済系都城の特徴をよく示しています。
奈良時代には、妻を亡くした大伴旅人と弔問に訪れた官人らが基肄城に登って歌を詠むなど、かつての緊迫した雰囲気とは一転し、交流の場ともなっていました。

基肄城跡は、大宰府の南に位置する基山(きざん)とその東峰に築かれた古代山城で、麓に築かれた関屋土塁やとうれぎ土塁などとともに「大宰府の南の守り」を担ったと考えられます。長さ約4kmにわたる土塁を城壁とし、城門跡や水門跡のほか、40棟ほどの礎石建物跡が残っています。最も南側にある南水門は、古代山城のなかでも最大級の大きさを誇る通水溝を備えていますが、その脇から3つの小さな通水溝も見つかっています。奈良時代には多くの倉庫が建ち並び、飢饉や災害に備えて稲穀が備蓄されるなど城の役割に変化も見えはじめますが、大宰府の長官である大伴旅人が大宰府や都の官人らと初夏の基肄城に登り歌を交わすなど、文化交流の舞台にもなりました。

基肄城の出入り口として土塁に設けられた門跡で、土塁が途切れた場所に、門を据える礎石が今も2つ残されています。その礎石には、扉の軸を受ける円形の孔が彫られており、そこから推定すると間口1.95mほどの観音開きの扉が設置されていたものと考えられます。 東北門は、基肄城で現在想定されている4つの門の中で大宰府政庁の真南に位置しており、その道中では北の遠方に大野城跡(四王寺山)を望むことができます。 当時の人々が往来する姿や、城内にあった倉庫群から物資を運ぶ人たちが門前で番人に確認されていた姿が目に浮かぶようです。

筑紫野市キャラクター/
つくしちゃん

東北門には今は門の礎石しか残っていませんが、歩いて通ると、土塁の大きさと守りを固めていた城門の雰囲気を体感することができます。
※現在、礎石は劣化を防ぐため、土のうで保護しています。

基山町キャラクター/
きやまん&きやまる

大宰府跡の正門に立ち、南を望むと、朱雀大路の延長線上にみえる山こそ、基肄跡がある基山(きざん)です。実際に基山山頂まで登ると、現在は大きくなった木によって大宰府跡は見えませんが、北は博多湾や福岡平野、南は筑後川や筑紫平野、東は朝倉地方まで望むことができ、その眺めは圧巻です。基山山頂付近には、地元の人々が中心となり、基肄城跡の存在を広めようとした証である「天智天皇欽仰之碑」もそびえています。

基山草スキー場:
〒841-0204 佐賀県三養基郡基山町宮浦2166-1

JR基山駅から徒歩約1時間20分

九州自動車道筑紫野ICから約15分

古代日本の「西の都」 イメージ画像

1300年前、筑紫の地に誕生した「西の都」。東アジアに華開いた壮大な国際交流都市のストーリーは、福岡県筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・那珂川市・宇美町、佐賀県基山町に広がっています。