西の都 装飾
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かんどう

所在地 筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・基山町
指定等の状況 未指定
エンブレム

大宰府の出入口となった水城の西門・東門を通過する直線道です。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府へ入りました。東門ルートは博多に繋がっており都からの官人赴任ルートとみられます。西門・東門ルートともに現在は市道として踏襲されています。大宰府から南に向かっては、筑後、肥前、豊前、豊後など西海道各地へと連なる官道がのび、様々な文物や人々が交流し、都市大宰府の発展を支えました。

政治や文化の交流拠点であった「西の都」は、古代の道路網の結節点でもありました。とくに「西の都」の入り口である水城を抜ける道は、京や海外へと繋がる道でした。水城西門を通る道は、博多湾に面した高台に設置された外国使節の宿泊施設である鴻臚館と大宰府とをつなぎ、外国使節や商人らが行き交いました。水城東門を通る道は、大宰府から現在の博多付近をとおり、宗像や遠賀などを経て山陽道から京へつながる道でした。大宰府から南に向けては、肥前、肥後、豊前、豊後などの国々へと繋がる道がのびていました。こうした官道は幅9~10mと規格性があり、丘陵を削り、谷を埋めて直線道路が造られました。大宰府を中心として整備される道路網は、西海道諸国(九州)や京、そして海外とをつなぐ交流網でした。

博多湾に面した丘に建つ古代の迎賓館である鴻臚館と、大宰府を結ぶ官道(水城西門ルート)は外国使節が大宰府へと向かう道で、これまで複数地点で発掘調査が行われています。春日公園内遺跡は1978年に発掘調査され、九州で初めての古代官道の調査例となりました。幅9mで、両側に側溝を持つ直線の道路が200m以上の長さで確認されました。道路面は一様に平坦で硬化していました。また、両側の溝から9世紀頃の遺物が出土していることから、この頃には道路の維持管理が疎かになったと考えられます。先ノ原遺跡は春日公園内遺跡から北に200mの位置にあります。これまでの調査で、幅約9mの道路が確認されています。この他、御供田遺跡、池田遺跡、谷川遺跡なども調査されています。

太宰府市キャラクター/
旅人のたびと・おとものタビット・
れいわ姫

官道を実感するには、ぜひ水城を訪れてください。
古代には、大宰府から北西の福岡平野へ向かう2本の官道があり、これを塞ぐ水城はかつて、「水城の関」と呼ばれていました。官道と水城が交わるところが水城の東門・西門でした。
東門を通る官道は、次第にせまくなり中世・近世には博多と太宰府を結ぶ往還として使われましたが、その後、国道3号線となり、現在は県道として利用されています。

筑紫野市キャラクター/
つくしちゃん

次田温泉(二日市温泉)から北を望むと、見通しの良い一直線の道が伸びています。この道は、大宰府条坊の中央を南北に延びる朱雀大路の延長線上(真南)に位置しています。また、この道が伸びる南北に長い土地の小字は「湯大路」といいます。「大路」地名は、古代のまちなみが由来となっていることが多く、その立地からもこの道は官道のなごりと考えられます。この「湯大道」を通って、大宰府の官人や僧侶などが次田温泉へ向かっていたのでしょうか。

春日市キャラクター/
かすがくんとあすかちゃん

春日公園内遺跡は公園造成のため芝生広場・調整池となり、現地で遺跡を見ることはできませんが、春日公園内(調整池南東のランニングコース沿い)に説明板があります。
なお、官道(西門ルート)を見下ろす高台にある玖岡本遺跡盤石地区では7世紀後半から8世紀の瓦をともなう掘立柱建物跡が2棟、発掘調査されています。眼下を通過する官道と建物跡との関係性が注目されます。

水城東門跡:〒818-0132 福岡県太宰府市国分2丁目17-11
水城西門跡:〒816-0952 福岡県大野城市下大利4丁目12

東門:西鉄都府楼前駅から徒歩約20分
西門:JR水城駅から徒歩約5分

古代日本の「西の都」 イメージ画像

1300年前、筑紫の地に誕生した「西の都」。東アジアに華開いた壮大な国際交流都市のストーリーは、福岡県筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・那珂川市・宇美町、佐賀県基山町に広がっています。