story 3

「西の都」成立以前の7世紀後半、東アジアの動乱の中、防衛の最前線となった筑紫には、山城や土塁による防衛線を巡らせた巨大な要塞が出現しました。“いにしえの要塞”を巡ると、激動の時代から豊かな交流の時代への移ろいを体感できます。

全長1.2km に及ぶ水城跡。立ちはだかる“壁” は、時代の緊張感を伝える。

  • およそ 180mもの石塁が連なる百間石垣は、大野城の堅固さを語る。

  • 大野城と同じ 665 年に築かれた基肄城も谷を遮る石塁が壮観。

663 年、朝鮮半島の百済救援に向かった倭国(当時の日本)は、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍との戦いに敗れ、海外からの脅威が現実的なものとなります。そして、筑紫大宰(大宰府の前身)は、博多湾付近からより安全な南方へ施設の移転を余儀なくされたのです。移転地は、南北に山が迫る盆地状の地形で、南北陸路の要衝でした。 戦いの翌年、1.2 ㎞の長大な土塁と外濠からなる水城を築いて、北西に広がる平野を遮断しました。そして、この城壁と接続する砦として北の四王寺山に大野城、南の基山に基肄城を対峙するように築き、所々に築いた土塁や自然の要害で周囲の守りを固めました。つまり、この地に移転した筑紫大宰は、北の博多湾、南の有明海から上陸してくる敵に備え、四方に防衛線を巡らせて要塞化を図ったのです。この壮大な防衛構想は、百済最後の王都・扶余を手本としたもので、百済官人の指導の下、最先端の土木技術を取り入れ、多くの人びとを動員して、巨大な防衛施設を短期間で築造していったのです。この筑紫大宰の中枢施設は、後の大宰府の原形となるものでした。 その後、海外からの脅威が去ると、この要塞の城壁を外郭として活かした、壮大な「西の都」大宰府が成立します。そして、東アジア諸国との外交が再開されると、水城の西門は博多湾からやってくる外交使節を迎える大宰府の玄関となりました。